3月11日

2年前、3月11日、午後。
豊中の図書館で後輩二人と読書会をしていた。
揺れが来たとき、わたしが格闘していたプリントに印字されたフランス語が踊った。
めまい?酔い?確かめるために窓を見ると、ブラインドが波打っている。

数分後、わたしたちの周りのデスクでパソコンを所持していたグループから「東北で震度7やって!」という大きな声があがった。
すぐに思い出したのは、関東にいた家族と恋人のことだった。

読書会を終えて別キャンパスにある研究室に戻り、Ustreamで後輩と津波のライブ映像を眺めていた。
ヘリコプターのカメラは、小さく映る家や田畑を飲み込む画面を横切る曲線が、右から左へと移動していくのを映しだした。
研究室の窓の外から大きなサイレンが近づいては、音が止み、また鳴り始めたサイレンは遠くへ消えていった。数時間にわたって何十台という緊急出動車が、大学病院の薬剤を詰め込み、高速道路を走っていくのを見た。
パソコンのメールアドレスに、親からの連絡が届いていた。東京も被害が大きかったことを知った。
恋人がtwitterで無事を知らせてくれた。東京は大渋滞で、ひとが溢れかえっていると知った。

家に帰ってからも、テレビをつけて過ごした。
地震の被害、津波、火事、停電の情報が、映像と音声でひっきりなしにわたしのからだに流れ込んだ。
気がつくと、夜更けだった。テレビを消して、ベッドに入った。
目が覚めて、テレビをつけた。何も変わらない映像と音声、数字の規模だけが大きく膨らみ、ネット上では地震による原子力発電所の被害の懸念が囁かれ始めていた。

2年経った。
わたしのとなりには、地震のときにはいなかった人間がすやすやと眠る。
起きれば、歩き、笑い、泣き、怒る人間は、2年前、わたしのとなりにはいなかった。
2年経った。いまでも津波の映像を見ると涙がこぼれる。
亡くなった多くの犠牲者の、ひとりひとりにある物語やドキュメンタリーを知るときよりもずっと、あの津波の映像が、わたしの胸を大きく抉る。

ただそれだけだ。ただそれだけ。