「社会」、「社会」って言うけど

下の記事における「社会」が示すもの、そして、その「社会」の価値が私にはわからない。という話。


http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100315/rape


この記事の作者は、どうやら、「私」という語が象徴として使われるような私的空間よりも、「社会」という語が象徴として使われるような公的空間を優先的に価値付けしているようだ。

まあAVもエロゲも全部なくなってくれて構わないんだけれど、控え目にいって小児性愛、拷問、レイプ、盗撮、痴漢系のポルノは存在自体が有害。

実際に被害にあって苦しむ人がいるモノということで、それを性的な娯楽として楽しむことが大っぴらに許容される文化はよろしくないと思う


精神分析の祖として世間で知られているジークムント・フロイトは、「文化への不満」というタイトルのエッセイ(英訳は「Civilization and Its Discontent」で意訳すると「文化とその満足を妨げるもの」という語義でとっても良いような気がすると私は勝手に思っている)で、文化と性が対立することを明示している。フロイトは、原始人の人々の間での炎に放尿して火を消す試みを「快感を満足させる習慣(光文社訳p.181)」として規定した後、以下のように語る。

初めてこの快感を断念して、火を消さずに持ち帰った人間は、その火を役立てることができたのだった。自分の性的な興奮の<火>を鎮めることで、自然の力である火を手なずけたのである。(同上、p.182)


ここで主張されているのは、「私的空間」に分類される性的な欲望を、自分のなかで(まさに「私的空間」において)抑圧することで、文化という「公的空間」が成立するという構図があるということである。それは同時に、原始人の生活において、自らを動物と切り離し、「人間化」するプロセスでもある。(フロイトは、道具を使うことを「人間」の一条件として提示している。)
しかし、フロイトはここで、私的空間(セックス)と公的空間(文化)の間の対立において、文化の側により価値があると明言しているわけではない。ただし、動物と自分たちを隔てることを決めた「人間」にとっては、そうなのかもしれないが。
私は自分のことをフェミニストだと思っていて、世間で「フェミニスト」と呼ばれる人たち(大概は、大学にいたり運動したりしている人たち)の本をよく読む。
そこで、一部のフェミニストにとって前提されていることは、公的空間と私的空間の間に断絶した隔たりがあるという論理自体が、すでに「公的空間」に価値を置いている人々によって構築されているというものである。すなわち、それは「人間化」された「人間」による論理であり、「人間化」をよしとし、それを理想として目指す「誰か」にとっての都合のよいロジックでもあるということだ。
ここで。
私には、私たちは現時点で、それほど「人間」であるのだろうか、という疑問がある。私は現段階で生きている自分のことを「人間化」されるところの理想的な「人間」だとは思わない。まして、その理想的「人間」に近づこうと試みるが、挫折してばかりいるという自覚がある。(日常的に感情を爆発させ、いけないことだと頭の片隅で思っていながら自慰をし、卑しいことだと頭でわかっていても人の邪魔をする)。私にとって、この記事で述べられている「社会」に存在しているのだろうと想定される「人間」とは、将来近づくべき、すなわち「人間化」された後の理想像である。
では理想像を述べることが、すなわち理想を追求していくことがよくないと言いたいのかと聞かれれば、「そうではない」と言いたい。私だって理想的な「人間」になりたい。しかし、私はそれ以前に現段階において理想的「人間」ではない。そのことの自覚が、この記事の作者におけるような断言をためらいなく行うことへの呵責を生む。
私は理想化された「人間」になりたい。でも、私はオナニーをするし人を傷つける。いくらか繊細かもしれないが、その微小な暴力性を自覚しているつもりだ。それゆえ、この記事の作者が

問題になってるのはポルノとして流通しているモノの中で性的な興奮を得るために反社会的な行動を描くことなんだ

とか、

「実際にやるのはいけないことだからやらないけれど、破壊的で反社会的な願望はあって当然だ。社会的に認めろ」と言う人がいるけれど、あって当然は言い過ぎだし、公言することじゃないと思うんだよね。まして社会的に認めろというのは自分に人の人権を脅かす権利があると主張しているんだという自覚をもってほしいと思う。

と言うことに象徴されるような、「反社会的な行動」に対する、自分の暴力性を省みることのない堂々たる発言をすることはできない。
今回都が条例の対象に考えているようなポルノの規制について、私はある点で賛成を表明する。そのようなポルノを好んで、それを読んでオナニーしている人が自分とかかわり合う可能性があるということについて、どうしても生理的な嫌悪感は拭えない。そういう人とはセックスしたくないし、できればお話もしたくない気持ちである。だって傷つくし、嫌な気持ちになるから。そういう感情を抱いてしまう自分を認め、そう思ってしまう間はそういう人には近づかないという私の判断は、至極自然なことだと思っている。
だからと言って、ブログという「公的」な場でそれを読んでいる人々をバッシングしようとは思わない。公的な場ではいつだって権力が存在する。私の加害的な権力性というものを不可視化しながら、誰か「私」と隔てられた「公的な場を共有している私的な関係でないひと」を批判することは、私にはできないのである。