dolls

Dolls[ドールズ] [DVD]

Dolls[ドールズ] [DVD]

ゆるやかなオムニバス形式で進行するこの映画には3組のカップルが登場する。


一組目は本編を通して中心的な軸でありつづける松本(西島秀俊)・佐和子(菅野美穂)。
映画は、松本が自分の婚約者であった佐和子に一方的に別れを告げ、社長令嬢と結婚する予定の式の場面から始まる。
松本と佐和子の別れは、家が介入し一方的に行われたと言えるだろう。松本は初め、自分の勤める会社の社長令嬢と結婚することに気乗りしていなかった。しかし、彼は彼の両親に強くすすめられたことに少なからず影響され、この結婚を承諾する。
また、結婚のための佐和子との別れの場面でも松本の両親は登場する。松本と佐和子は婚約していたのだから、ここには佐和子の両親も登場する。結婚という事態が家を巻き込み、ときには家によって実質的に決定される現実が描きだされている。

このとき松本は佐和子との一方的な決別の推移を黙って見過ごしたという過ちに気づかないという過ちを犯す。
気付かなかった過ちとは、佐和子のことが大事だと自覚しなかったことである。彼は佐和子のことを大切だと自覚していなかった。松本が佐和子を大事に思っていたことは式の開始直前以降の松本の行動がよく指し示している。式の開始直前に旧友から「佐和子が自殺未遂をして精神的におかしくなった」と聞くと、式の途中だというのにも関わらず病院へ急行するのである。


病院から佐和子を連れ出した松本は、心中場所を探す放浪の旅に出る。
四季を通じて二人がすれ違う人々のうち、2つのカップルの独立した物語が進行する。


そのうちの一組は、ヤクザの親分(三橋達也)の物語。
若い頃にこちらも自分の都合で別れを告げた良子(松原智恵子)が「土曜日には毎週お弁当を作って待っているから」と言ったことばを50年後に思い出し、親分は50年ぶりに公園に向かう。
そこには50年間毎週弁当を作ってベンチに座る良子がいて、彼らは再び弁当を一緒に食べる。良子は親分が50年前の彼だと気づかないが、親分が真実を口にしようかというときに、彼は抗争に巻き込まれて殺されてしまう。
彼が殺されたのは、良子と(おそらくは翌週の約束を暗黙のうちにしたあとで)別れた後だったので、良子は真実をひとつも知らないまま彼を失ってしまう。


二組目は、アイドルの追っかけをする青年温井(武重勉)の物語。
交通事故で顔にケガをした春菜(深田恭子)が芸能界から引退し、彼女のはじめての追っかけをしていた東京に住む温井は脳裏に彼女の写真集の顔を焼き付けたあとで、カッターで自分の目を傷つけ失明する。
そうすることで温井は、顔を見せたくないといって社会から身を隠していた春菜の前に現れ、春菜に自分だけを見てもらい、彼女に手を引かれて散歩するという機会を手に入れる。
その後温井は道に倒れて死んでしまう。
明確には提示されていないが、春菜は東京に帰る温井を見送った後、再度温井に会えることを楽しみにしていたのだと思われる。


松本と佐和子の場合、男が過ちを犯し、女はそれを壊れながらも赦しつづける。

彼らが「死」という契機でもって思いを成就させる条件がこの映画のなかで示されていると言えるだろう。赤い糸は、いつも彼らをつないでいる。そして死はいつもその傍らにあり、おそらくそうでしかありえない。


あいだに挿入された二組のカップルの物語は、女の知らない間に男が死ぬという共通点を持っている。そして二人の男はともに女を愛していた。
カップルは同時に死ぬわけではなく、女が知らぬまに残され男が死ぬ。良子にとっても春菜にとっても、彼女たちの相手である男は唯一無二の存在ではないようだ。彼女たちはそれぞれ愛する男性対象を二人以上持っていて、失うのは大切なひとのうちのひとりでしかない。


一方の佐和子にとって、男性は松本ひとりであったのである。


映像の色彩が鮮やかで美しい。初めに登場する人形芝居は近松門左衛門の「冥途の飛脚」。
この作品でもまた、死は主題化されずに中心からずらされることによって、よりその存在を際立たせる。それに伴なうようにして儚い生がより色鮮やかに浮かび上がる。


興味深いがいまだにわからないのは、『dolls』という映画タイトルの由来。インターネットで調べても出てこない。
勝手な推測を許していただけるのなら、想起されたのは松本と佐和子が干されていた文楽の人形の服を見たシーンのあと、それと同じ服を着ていること。
ここから、松本と佐和子は人形と同一視されていることが伺われる。


近松門左衛門の「冥途の飛脚」は、借金と死刑判決という大罪を身に受けた男が「生きらるるだけ、この世で添はう」と遊女と刹那主義的に逃避行をする物語*1。この映画のキャッチコピーが「あなたに、ここに、いてほしい。」であること*2カップルとしての二人の外部にある世界とのフーコー的な権力関係のなかで、非情な暴力を受けることになる三組のカップルはそれぞれの結末をたどっている。私たちが人形のように外部に操られて生きることを、時に否定しきれないことこそが暴力的と名指しされるのだとすれば、その中でカップルにおける個人的な愛はどのような様相を描くのだろうか。そのことを、あますことない映画のすべてが物語っている。

*1:http://homepage2.nifty.com/hay/meido.html

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/Dolls_(映画)))から推測して、刹那主義的逃避行の側面を強く引き継いでいるといえる。また、北野武はこの映画について「これまで(撮った中)で一番暴力的な映画」と語っている((同上