哲学の道場

哲学の道場 (ちくま新書)

哲学の道場 (ちくま新書)

読了。著者は元電通大教授(〜2009)で現在は「真面目に哲学を志す人のために『哲学塾カント』を開設している*1中島義道である。私のなかでは、カントの思想研究の大御所であり、時間論についての哲学者という印象が強い。社会的な肩書を超えてとても個性的で魅力的な著者が書くこの本は、「哲学とはなにか」という問いに対するあるひとりの哲学者の主張が論じられていると言える。
著者は、哲学は難しいものであると主張するところからはじめる。というのも、一昔前に「ソフィーの世界」が流行し、現在も哲学入門書が多く刊行されているが、それらを読んで感動したり理解したような気持ちになる人間は哲学をしていないというのである。著者によれば哲学するためには哲学的センスが必要である。
一章では哲学的センスについて書かれている。そこで中心になっているのは「私が今生きているとはどういうことなのか?そして、まもなく死んでしまうとはどういうことなのか?」という問いである。これを自分の問題として引き受けることができることが、哲学的センスを持つということである。哲学的センスをアカデミズムにおける哲学解釈研究(哲学学と言えるだろう)と区別するために中島は、哲学学について以下のような例を出している。

アリストテレスの時間論やアウグスチヌスの時間論に関して、立派な論文さえ書くことができる。しかし、もしその底に「驚き」の体験がないとしたら、その知識は哲学とはまったく無縁なものです。いや、哲学に最も近い外観をしているから、最も警戒すべきマガイモノです。(中略)
彼(女)は「過去の現在は記憶であり、現在の現在は直観であり、未来の現在は期待である」というように「現在しかない」と明言しているアウグスチヌスの時間論を語りながら、アウグスチヌスが四世紀という過去に生きてきたことを素朴物理学的な時間概念において理解しており、そのズレを気にとめない。そこに、たいへん語りにくい場面、矛盾と紙一重の場面が開けていることにあまりこだわらないのです。(pp.30-31)

ここで、引用における彼(女)らは哲学において重要な契機となる「驚き」の体験を持っていない例として語られている。その「驚き」の体験について、この後キルケゴールの『死に至る病』が読解されている。キルケゴールが死について考えたことのなかの大きなキーワードとしてある「絶望」に注目し、この「「絶望」と呼ぶしかないような壮絶な体験をしたとき、彼(女)は哲学に目覚めるかもしれない」のだ。
二章に繋がることとして、ただしこの問いに象徴されるような思考に目をそらさず常に意識し問い続けることはとても難しいということが、著者の体験談などが述べられることにより、わかりやすく説得力を持って論じられている。
三章では、これらの哲学を続けていくためには師と仲間が必要だということが論じられている。世間一般の社会的労働価値や社会的常識と、哲学とは真っ向から反対するものだからである。ここでは著者自身の生い立ちが紹介され、いかにそれが世間一般の社会と呼ばれるものと相反してきたかが説得力を持って語られている。
四章以降は、哲学を続けていくために修行が必要であるというテーマにおいて、実際にその修業を3項目に分類している。1哲学的思索の修行、2哲学的議論の修行、3哲学書の読み方の修行である。それぞれ1では哲学的思索の方法が検討されている。2では哲学的議論のために自分の言葉を作り出すことが重要視され、サルトルやヒュームが引用されている。3では著者が、大学において専門テーマとして扱っていたのだろうカントの純粋理性批判を読解する試みがわかりやすく説明されている。
最後に、中島は哲学は役に立たないし、そこには救済もないと述べている。哲学というものに対して役立つとか救われるとかいうことを期待して哲学を志す者が数多くいることを、十年以上続く私塾である「無用塾」において痛感していたのかもしれない。真に哲学をすることとはどういうことなのか。それについて著者がこの本において行ってきた論証の試みは、成功しているように私には感じられた。