わたしのことばがひとに通じない絶望が意識化されたのは、最近のことで、
それまでは通じると思いこんでいたのかどうなのかはよくわからない。

ことばを構成していくための大きな秩序みたいなものがあって(「おおもじのたしゃ」でもいい)、
それに則って話をするというルールは誰が決めたの??

書くことのうちでは、秩序は必要、合意にも必要。
だけどきっと、共有のうちで、かならずしも秩序は必要ないと思う。

ひとは孤独で、わたしは孤独に弱くて、誰かが/といることを求めてるとき、
秩序に則った対話なんて、必要ないどころか、邪魔なものにしかならない。

さらにいえば、共有できたときに合意は必要?
きっと彼らが目指すほどには必要ない。