映画『告白』【再掲】

原作はこちら。

告白

告白

復讐が繰り返されるということこそが、彼女を救っている。Fixing ones wagon is based on the Re-sentiment.It do give her the redemption.復讐は繰り返される。つまり、復讐はなくなることがない。誰も悪くない。ゆえにすべての人が悪い。悪を私から切り離されたものとして措定することができない。その証として復讐が現象し、復讐によってルサンチマンが現実化される。そのとき、何が悪かということはすでに言葉では語ることができないのだろう。


ことばはつねに、自分自身を、理想である場所に定置する。The language is always settled itself where is an utopia.その場所における理想の反対、すなわち、言葉が征服しなければならない場所とは、常に言葉によって表されるのみである。言葉が表す理想を阻む悪。それは、言葉が理想を目論むきっかけとなった「現実」でもある。とはいえ、それはつねに言葉によってしか表されえない。そして、それとパラレルに、言葉で表され得ない悪が、おそらく、存在する。
それとは別に、倫理の文脈において、私たちは悪を否定形で語ることがある。「〜してはならない」。そのとき、悪は境界線で完全にぐるっと囲まれないし、指し示されないことに注意しておく必要がある。


映画のなかの犯罪は、すべて法に問われ得ないものである。法の外ですべてのドラマが進行する。法を軽視するために、殺人を犯すのは少年でなければならないし、他の殺人はすべて証拠を残すことのない完全犯罪でなければならなかった。映画のなかで表されるのは、法が括ることのできない現実が存在し、そこに、私たちが決してそこから逃げることのできないものが含まれるということである。そこには最低でも死が存在している。法は、つねに、そこから目を逸らすための装置でしかないのかもしれない。


映画のなかの最後の台詞は、「ここから君の更生がはじまる」である。映画を見るわたしたちは、そして作者は、その更生を想像することが可能であろうか。登場するすべての母子関係が駆逐された後で、彼らが生きていくために信仰するものが法でないとすれば、そして母子関係に代表される愛でないとすれば、それは何なのだろうか?What can they/we believe if there cannot be the Law, if there cannot be the Love which is empitomized by the mother-infant relationship?映画は、その題名を以て、それについて考えることを問うている。