公聴会レジュメ

1月20日修論公聴会用のレジュメ、別名、修論要約を公開しようかと思う。5〜10分程度の発表用に作りました。副指導教官の先生に褒めていただけたので、在学生は自身の公聴会のレジュメを作る際にも、字数や形式を参考にできるかもしれません。

修士論文公聴会(2012年1月20日
現代思想M2、宮澤由歌

 本論文では、ジョルジュ・バタイユの共同体論を検討した。バタイユの考える共同体と、それより上位のバタイユ思想で重要視される「侵犯」や「エロティシズム」、「限定/普遍経済」の概念との関係性を明らかにしたうえで(第一部)、バタイユがあるひとつの共同体について論じた文章を検討し、その共同体論の独自性を指摘した(第二部)。
 第一部では、第二部で扱う共同体との対比を鑑み、バタイユが結婚について論じた共同体論を取り上げ、「侵犯」や「エロティシズム」、「限定/普遍経済」などのタームを用いて解説した。「侵犯」や「エロティシズム」はバタイユのエロティシズム論において、「限定/普遍経済」はバタイユの普遍経済論において、それぞれ重要な概念であるので、第一部では、そうした理論を介して、結婚の共同体を論述した。
 第二部では、バタイユが「カップル」と呼ぶ恋人たちの共同体を検討した。第一部で取り扱った結婚の共同体との対比を念頭におきながら、バタイユの文章から恋人たちの共同体の様相を明らかにした。第二部の後半では、恋人たちの共同体が普遍経済の範疇に含まれるとしたうえで、共同体の始源の問題に注目し、バタイユが始源について明確に述べることをせず、さらに矛盾的な説明を行っていることを指摘した。
 結論では、上記の問題をエクリチュールの視点から眺めることで、共同体の始源にかんする矛盾に対し、ひとつの解決を見いだせることを指摘した。また、エクリチュールに注目して普遍経済的共同体を説明する際の問題点を、ジェンダー論の視点から、暴力の責任の所在の問題と関連づけて論じることで、本論文を締めくくった。

 バタイユの共同体論は、エロティシズムにかんする場についての論述にその特徴が色濃く表れていると言える。バタイユによれば、結婚の共同体はエロティシズムと切り離すことができない。結婚の共同体は、その内部から見ればエロティシズムを弱体化させる反復の状態として、その外部から見ればエロティシズム的侵犯を介して部族間の交流を活性化させる移動の側面からバタイユに説明される。結婚という合法的な枠組みのなかで行われる性行為は、その反復により、罪悪感や危険性といった人間に不安感を与えるもの(これこそがバタイユのエロティシズム概念において重要な要素であるもの)を弱体化させる。他方で、結婚は、部族間の交流を活性化させるため、身近な女性を禁欲し他者に与えるという贈与=交換制度のもとでの移動の側面を強調される。ここではふたつの視点に注目することが重要であって、ひとつは、禁欲の所作がエロティシズム的侵犯を補完するという意味において結婚とエロティシズムが関連している点であり、もうひとつは、モースが「全体的社会事象」と呼んだ贈与=交換制度のひとつの結節点として結婚が位置づけられている点である。
 状態・移行の側面のいずれからにしても、結婚の共同体はエロティシズムと関連しつつも、ヘーゲル弁証法を超え出るものではない。すなわち、共同体の構成員間で奪い奪われることが前提となっているのであり、贈与の側面があったとしても、それはモースの贈与=交換概念における贈与であって、そこでは返済が義務のレベルで見込まれうる。それに対し、恋人たちの共同体では、デリダが「純粋な贈与」と呼んだ行為が見いだせる。共同体の構成員にはふたつの主体に宇宙が加えられ、共同体は三者的な描かれ方をされる。カップルは、互いに侵犯しつつもそのエネルギーを宇宙へ向かって消尽させるような意図を持つものとして描かれる。
 バタイユカップルの描き方に注目すると、カップルの共同体の始源は奇妙なものに思われる。結婚の共同体に代表される弁証法的な共同体においては、主体が対象を侵犯するという形で共同体が始まるが、カップルの共同体では、ふたつの主体が互いに補完しあうといった記述がなされる。すなわち、そこでは、はじめに主体と対象(あるいはふたつの主体)があり、主体の行為によって場が構成されるというよりも、むしろ、場がふたつの主体を見出しうる条件として設定されていると読むことができる。
 モーリス・ブランショが、この読みに対して示唆的な思想を残している。出来事の始源を「il 彼/それ」という第三者に委ねることの示唆である。ふたつの主体ではなく、彼/それという文法的第三者を主語にするエクリチュール上の思考操作は、普遍経済的共同体を説明するのに非常に使い心地の良いものである。とはいえ、共同体の始源にかんするこの解決法は、共同体内部において生じる出来事に対する責任を一方の主体に遡れないという特徴をもつ。恋人たちの共同体の内部で生じる出来事が、侵犯という暴力的な側面を持つことが自明であることから、そうした出来事に対する責任の所在は追求されることを免れない。そのため、共同体のこの責任の問題に対しては、「il 彼/それ」を主語とするエクリチュールによる解決法は、欠点を有すると言いうる。バタイユは恋人たちの共同体について論じたあと、この問題をエクリチュールの解決法に収斂させることなく、経験論的視座からの検討をはじめる。バタイユの共同体論には、共同体内部の出来事にかんする責任の所在の問題にかんして、その独自の経験論的視座からの論述が残されており、そこに、普遍経済的な共同体に対するエクリチュールによる解決法を補うものとしてのヒントが隠されているかもしれない。

蛇足だけれども、わたしは自分が完成させた文章の最後の一文を気に入ることができません。毎度のことである。