映画『八日目の蝉』

原作はこちら。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

人間において、出産は特別な営為のひとつだといえる。たとえば、射精が生物学的男性に特権的な出来事であるように、出産は特権的な生物学的女性に限られた、特権的な出来事であるからである。
女性における出産には、意志がその出来事の大体の選択を可能にするのと同時に、どうしてもそれが選択不可能になる(意図とは別の)条件がいくつか存在する。それには、生物学的なものとそうでないものがあり、前者のひとつにはいわゆる「不妊」と呼ばれるものがあるし、後者のひとつには望まない妊娠というものがあるだろう。
希和子における選択不可能な出産は、後者が原因であった。わたしはそれを「望まない妊娠」と書いたが、このとき、妊娠を望まないのは、希和子ではなくこどもの父親である秋山丈博として描かれている。
時が経てば出産という出来事が発生する妊娠のスタートは、ひとりではきることができない。そこには必ず二人(ときにはそれ以上)の人間が必要である。この事実が意味するひとつのことは、次のようなものである。妊娠のスタートをきった二人の意志の足並みが揃わないとしても、選択を意志的に決定しなければ、自然的に出産という出来事が発生する(ただし、流産など不慮の事故は除く)。この意味で出産はいわば、意志なき結果として発生することがある。あるいは、消極的な選択(妊娠の受容)によって、出産は発生しうる。そしてそれはまた、次のような事実を導く。出産を選択する能動的な意志が物語的なものである(より極端に言えば、物語的なものでしかない)可能性である。

恵理菜が出産の選択にかんして紡ぐ物語は、一見すると、生物学的な母親である恵津子に対する反発心である。事実、妊娠を告白するため実家に戻った恵理菜は、約20年前に恵津子が希和子に対して放った「空っぽのがらんどう」という印象的なことばを用いて感情的に反抗する。このシーンは、映画のなかで、重要なシーンのひとつであるということができるだろう。17年前に法によって下された恵津子と希和子への審判は、このシーンで恵理菜によって覆されるのだが、話を戻せば、迷いながらも出産に対する意志を固めていく恵理菜の物語は、恵理菜自身がこのシーンで宣言するように、17年前の法の審判を疑わないがそれを信じきることのできない恵津子に対する葛藤の徴であり、また娘が引き受ける二人の母の葛藤の現実化でもある。

その意味で、この映画はつねに出産(及びその後の育児)以前の心模様や現実に焦点を充てているといえる。妊娠にかんする物語が映画のなかで物語性を帯びて強調されればされるほど、それと隔たった現実を透かし見ることが可能になる。物語のなかで演出される出産(及びその後の育児)にかんする様々な思惑や現実は、つねに予期的な出来事にとどまり、それは予期的であるがゆえに現実とは隔たった物語でしかない。この点からすれば、希和子が選択できなかった道を選択した恵理菜が、希和子が得た喪失感を(形は異なるのであれ)得ないという確信はどこにもない。それにもかかわらず、恵理菜は、希和子と恵里菜が生活した場所を訪ねることで、出産への意志や自信を得ていく。ここには物語が出産という出来事を発生させる意志を宿しているということができる。言い換えれば、意志を持つのは、こどもを作ったふたりではなく、物語なのである。

映画の最後で、希和子を登場させない点に違和感をもったひとは多かっただろう(原作・テレビドラマには存在するシーンである)。それは、映画で強調される意図が安易な生命の誕生の肯定にとどまってしまっている点に対するものであるとはいえないだろうか。